視神経から脳に染み込むような絵

私は(あまり)写真集や(まったく)カメラ雑誌は見ません。では何を見ているかというと、alt.binaries 系のネットニューズ中心です。昔は自分でローカルなサーバーから自動で処理させていましたが、今はニュースサイトを覗いています。

そして、世界中に配信されている USENET 画像をサムネイルで毎日何千枚も見るようにしています。いっぺんに何枚も見れるのでそんなに時間はかかりません。世界中の名も無きカメラマンが撮った写真群を先入観無しに受け入れる為です。もちろんこれは撮影の参考だけではなく個人的な趣味もあります。(ネットニューズ画像はその過半数が女性写真です、念の為)そしてピーンと来た画像はもちろん拡大なり、保存なりします。

その時見ているのは、解像度、シャープネス、自然な画質などです。やはり斬新な絵は、その辺りのこだわりもすごいと思います。参考にしたいものです。逆につまらない絵はいかにモデルが良くても、「眠たい画像」になっているように思います。そういう絵はやはり視神経から染み込んできません。
まるで自分で見ているような

じゃあ、「視神経から脳に染み込む」自然な画質とはなんだろう。相変わらず独断で話を進めますが、まず第一に、自分の視界に近いということにつきると思う。私が写真を見てハッとするときは、「まるで自分で見ているようだ」と思う時が多い。やはり最高のインプットは自分の視界の中にあると思う。

人間の目、その気になれば服の繊維まで見えるという素晴らしい性能を持っている。服が透けて見える人は・・・羨ましいです。その上、全体をぼやっと感じることもできる。そして、ピントは無段階オートフォーカスだし、反応も早い。その上3Dだ。

そして、人間の目は被写体深度が比較的浅い。とはいっても他人の視界はわからないが、少なくとも私の目は浅い(笑)。目をしかめれば多少深くなる程度だ。しかし絞り込むと視野が狭くなる(爆)。なので視界に近づけるために、浅めの深度で写真を撮ることになる。自動的にズームという選択肢は消える。

でも深度だけでは視界は語れない。やはり画質が重要になってくる。
視界の中のピントの芯

浅めの深度で写真を撮るということについてもう少し。ズームという選択肢が消えると書いたが、これは開放F値が高くなるという問題だけではない。ファインダーの見え方の問題でもある。ズームレンズだとファインダーがやはり暗いのだ。

私がデジタルに移行しない理由の一つに、ファインダーの問題がある。暗くて見にくいデジタルカメラ用のファインダーは撮っていて楽しくない。明るいレンズで明るいファインダースクリーンを覗いて、被写体に合象したときの感覚はとても気持ちがいい。頭の中の霧が晴れるようでもある。

人間の視界の話に戻るが、視界の中心に常にピントの芯があるわけではない。人間の視野は主にまぶたで決まる。そして、眼球はその視界の中を動く。ピントは眼球が捕らえた物に合うのであるが、それは決していつも視野の中心にピントが合っているわけではない。例えば正面を向いて、眼球を上下左右に動かすと、視野はそのままでピントの位置が動くことになる。なので逆にピントの芯は絵の中心にない方が自然ということになる。

そうすると自然にファインダーは隅々まで明るく見やすく、さらに何処でもピントが合象できる必要がある。よって、視野に近い画像を得るためには、明るいファインダーすなわち明るいレンズに性能のいいスクリーンが必要になってくるはずだ。「AFでもいいじゃん」と考える人は多いだろう。もちろんいいと思う。でも自分で合象させるための明るいファインダーは捨てられない。
「色」とは結局幻想である

そしてピントの芯がかっちりとクリアに決まっている写真は立体感が際だってくる。視点を変えたら、画面の中で被写体と背景が位置を変えるように見えるような写真が好きだ。

そのような絵の対極として存在するのは、ハンディタイプで数百万画素(メガピクセル)を謳っているコンパクトデジタルカメラで撮られた写真だ。これらのカメラは、画素数=画質という洗脳をユーザに対してさかんに行なってきた。解像度は物凄いが全体的にのっぺりしてしまう絵を思い出して頂けると良いと思う。

これは多画素化によって画素一つあたりの面積が小さくなるため、情報のダイナミックレンジが狭くなるのと、光の回折現象がそのCCDサイズだと顕著になること。そして、その構造上被写体深度の深いパンフォーカスの画像しか撮れないという問題に行当たる。そしてその色合いはどこか人工的である。それはそうであろう。デジタルカメラは単なる信号量を画像化するため、各メーカーのノウハウによる補正処理が必ず入るからだ。さすがに高級一眼タイプや、最近のデジカメは自然の色に近いと思うが。

とにかく自分が納得できる色で撮りたいというこだわりが強い。厚化粧の色、均一化された色、、損なわれた色はいらない。

そこまで書いてふと気づくことがある。結局色なんて物は存在しない。すべては見る人の幻想である。

現実に存在するのはその物質で反射した光の振動の速度のみである。振動のスピードのみだ。もし色というものがあるとすれば、それは色を放っているように見える物質表面の光の反射具合を表すパラメータと、その光を認知するために進化し、あるいは作り出された変換方式のみだ。

え、よくわからない? 私もです(笑)。でも続けます。

光の振動の時間的な成分を人間の目やレンズは、周波数領域に変換し(いわゆるフーリエ変換)像を結び色を感じる。そしてその視覚は脳に直結している。視覚はその創り出した幻想によって、欲望やアラームや快適さを光の速さで我々に伝えてくれるのだ。それは、きっとこだわるだけの価値はあるはずだ。

そしてそのこだわりは、「見たこともないような」、あるいは「どこかで見たことがあるような」という視覚に直結する色を感じたいという命題に帰って行く。自然な色というのはそれに尽きるように思う。そう、自分の視覚に忠実な再現性を基準にすべきなのだ。